

1969年、桂小文枝(故・五代目文枝)に入門。1967年のラジオ番組「歌え!ヤングタウン」を皮切りに、「ヤングOh!Oh!」、「新婚さんいらっしゃい」、「パンチDEデート」、「三枝の爆笑美女対談」、「三枝の国盗りゲーム」、「クイズ!年の差なんて」など数々の番組を司会。1981年から創作落語に精力的に取り組み、これまでに200作以上の作品を発表。
「上方お笑い大賞」、「大阪府民劇場奨励賞」、二度の「芸術祭大賞」、「芸術選奨文部科学大臣賞」、「大阪文化賞特別賞」を受賞。2003年には上方落語協会会長に就任。2006年秋の叙勲では紫綬褒章を受章した。
高校時代、私は演劇部に在籍していました。しかし、それは表に出るほうではなく、主に演出を手がけていたんです。 ところが、演出家の挨拶と称して、公演のたびにちょくちょく舞台に上がり、話しをするようになっていました。それが人前に出て話すことのきっかけとなり、いつしか同級生とコンビを組みはじめ、漫才をするようになっていたんです。 そして、自分の進路として漫才の世界を意識し始めました。 しかしながら、自分をここまで育ててくれた母親に申し訳なく、人並みに進学ないしは就職をということで、一旦、郵便局に就職したのです。
就職すると、もっと学びたいという気持ちが沸いてきまして、勤務の傍ら図書館や予備校に通い、
翌年、関西大学商学部へ入学いたしました。
その大学で、“桂米朝師匠”の落語を
生で観る機会に巡り会いまして、すっかり落語に打ちのめされてしまったんです。
その後、その会場で出会った同級の林省之助くんが落語研究会を作りたいといい始め、仲間達と
「落語大学」という名称の落語研究会を結成しました。
落語大学では「浪漫亭ちっく」という名で活動していたのですが、学祭の催し物などを通して学内の話題になり、ちょっとした騒ぎになるほどでした。
卒業が近づいてくると就職活動なども行い、会社からも内定は頂いていました。
しかし、自分にはサラリーマンとしての人生が、どうも向いていない気がして、伝手を頼りに、
今は亡き5代目文枝師匠になんば花月の稽古場で入門のお願いをさせていただいたのです。
すると師匠に「どうしても入門したいというのなら、君のお母さんを連れてきなさい!」と言われましてね。
後日改めて、母を連れて行きました。
しかしその時、母には「落語家として弟子入りしたいから一緒に来てくれ」と
言い出せず、「就職先の上司に会わせたいから」ということでついて来てもらったんです。
まあ、嘘はついてませんよね。
母は事情を把握した途端に猛反対しましたが、僕の決意が固いのが分かったんでしょう。
最後には弟子入りする事を許してくれました。
弟子入りしてしばらくは師匠から、「君のは素人口調や、そんな口調ではあかん。そこの言いようがあかんのや!」とよく怒られました。それを直してもらおうと稽古をつけてもらいましてね、「素人口調」に戻ろうとするとパーンと物差しで膝を叩かれるわけです。落語の「素人口調」とは「上手口調」といって、上手に喋ろうとして、若いのに年寄りじみた口調になることです。当時は、どうすればプロの口調になれるのかを模索し悩みながら過ごしました。
そんな中、並行して皆さんに知ってもらうための努力というのも行っておりまして、ラジオやテレビからの出演依頼も来るようになりました。そうしたお仕事を通して私なりの「プロの口調」というのを確立していきました。しかし、それは古典落語には合わないスタイルだったのです。
でも、憧れて入った落語をやめる訳にはいきません。さあ、どうしよう!ということで試行錯誤の末、たどり着いたのが創作落語というわけです。

その創作落語を昨年DVD−BOXという形でリリースさせて頂きました。 本来は一番新しいものを皆様に観ていただきたいんですが、それではいつまで経っても出せませんので、思いきって作ってみようということになったんです。 出来不出来に関してはご覧いただいた皆様にご判断していただくことになりますが、私の落語が一つでも後の時代に遺るようなことになれば、落語家として幸いです。
桂三枝