
−今日は師匠の若い頃の苦労話などをお伺いしたいと思います。 まず落語家を目指そうと思ったきっかけを教えていただけますか。
仁:10代前半の頃、僕は落語をラジオでしか聞いた事が無くて、またその番組で流れる噺も桂文楽師匠や古今亭志ん生師匠など、ほとんどが東京の落語家さんだったので、『落語というのは東京のものなのかなぁ』と思ってました。
大阪にも落語があるということを知ったのは、高校生の頃にとある古道具屋さんで、民謡や講談や浪曲に混じって、『落語:春団冶』と書いてあったレコードを何気なく買って家の蓄音器で聞いてみたところ、これが大変面白かった。
僕の感性にはピッタリのレコードだったんですが、友人達にはこの面白さが理解できない子が多かったですね。春団治師匠は、『僕にはこれが面白いと思う』という事を喋っていらっしゃるんだけれども、聞いてる人によっては面白く感じられないという事がある。あとはとても早口なので、聞き取りにくい。このレコードは、大阪以外の人がお聞きになってもほとんど分らないと思います。そもそも大阪の我々の仲間でさえも分らなかったんですから。もっとも後で聞いた話では、レコードの収録可能時間に収めるためにかなり早口で喋っており、実際の高座ではもっとゆっくり演られていたらしいんですけどね。
春団治師匠に影響された僕は、早速師匠の噺を3分くらいにまとめて、当時ラジオで盛んだった素人参加型の番組に出演するようになったんです。で、当時番組の審査員をされていた先輩方や師匠方と顔なじみになって、『ほんだらいっぺん落語家をやってみよか』っていう気持ちになりました。当時大阪には落語家が 20人位しかいなかったと思います。戦中〜戦前の師匠達は昭和25年を境にして他界された人が多かったので、東京に比べて層が薄かったんです。現在の 1/10位の人数ですから、やりがいもあるし、可能性を感じました。、『落語』というものが、戦後、世の中が落ち着いて来た時に好まれる芸能になるのではないか、と当時の空気から感じてましたね。
−弟子入りの際に、『3年間は頑張れ』と言われたとの事ですが。
仁:3年間、人の3倍くらい頑張ってみて、自分に落語家としての資質と適性が備わっているか確かめてみようということで。備わってへんかったら何年やっててもダメだからね。まぁ当時はそんな将来の見通しよりも、目の前でお客さんが笑ってくれるっていう方が面白かったですな。僕らの師匠の経済的な事情は知っていましたから、師匠以上の暮らしというのは想像がつきませんでした。 『この噺はお客さんに好まれる』っちゅう勘は働くけど、それが商売としてどこまで広がるのかという事は分からなかったんですな。
で、昭和39年の5月にプロとして初めて京都花月の舞台に上がって、『くしゃみ講釈』を演じたんですが、これが全然ウケませんでした。2回目までの休憩時間中に、気分転換しようと思って映画を観に行ったら、『黒い世界』という非常に悲しいストーリーの映画を観てしまってね、観終わったら余計に陰気になっていて、2回目の舞台もダメでしたね。
実感したのは、アマチュアの噺に喜んでくれるお客さんと、お金を払って時間を割いて劇場まで足を運んでくれるお客さんとではレベルが全然違うということです。『くしゃみ講釈』は、素人時代には受けていたのに、劇場では全然受けませんでしたから。
−デビュー当時の師匠にはどういう所が足りなかったと思いますか?
仁:全部足らなんだ(笑)。
−でもそれから一人でも多くのお客さんに笑ってもらうために、例えば話の内容を変えてみたりとか、演出方法を変えてみたりとかいう試行錯誤の日が始まりますけれども、その頃噺を進める中で特に重要視していた事は何ですか?
仁:吉本興業という会社の方針を極端に言うたら、『面白くないといかん』という事なんです。笑いの興行会社ですから、それ以外何にもないんです。このネタはこんなんです、ってただやってもしょうがない訳です。15分という自分の持ち時間の間に、お客さんにはおもいっきり笑てもらわないかん。という事になると、『どんなんかな〜?』と、その方法を考えますよね。
まず小噺があって、ここで笑ってもらって、次の小噺で笑ってもらって、また次で笑ってもらって、と笑いが重なっていかないとダメなんです。15分で通常の古典落語をやっても仕方が無いし、そういうのはお客さんも望んでないんです。それに気が付きまして…気が付くのが偉いね(笑)。で、面白いネタをいっぱい積み重ねてみたら、お客さんが、ずっと笑ってくれている。やはり笑わせ方を使い分けるというのは重要です。落ち着いて落語をやりたいんやったら、落語会で演ればいい、と。
−昭和40年位からラジオの深夜放送のDJを始められますよね?その頃学生だった人はそろそろ50歳、60歳位になってるわけですが、今の若者と当時の若者の違いなどありますか?
仁:えー、違いははっきり分らないですけどねぇ。当時は『ながら族』と言って、勉強しながら、放送を聴くというのが流行っていたんです。 今までに例の無い勉強方法でしたから、当時の大人たちからは、 『集中して勉強せなあかんのに、ラジオを聴きながらなんて勉強ができるわけがない』、と非難されていたんです。実際その通りなんだろうけど、やっぱり深夜に勉強してたら寂しいという事もあって、その時間に(ラジオで)つまらん事を喋ってる人間がおると、頼りになるというか、安心できたんでしょうな。『こいつもやっとる。ほなわしもやろか』という仲間意識みたいなものがリスナーにはあったんだと思うんですよ。
−深夜放送聴きながら受験勉強するというのは、今でこそ普通ですけれど、師匠はその先駆け的な存在だった訳ですね。
仁:うん。そうですなぁ。珍しかったんでしょう…珍しいというかねぇ、何考えとんねん、ってなもんですわ。−その後、『ヤングオーオー』というテレビ番組に出演する様になり、いよいよ全国的に人気が爆発して多忙を極める日々が続く訳ですけれども、その中で一番しんどかったった事件というのは何ですか?
仁:一番しんどかったというのは…まぁずっとしんどかったんだけどね。大阪で、『世の中さかさま』というドラマと、東京で、『男は度胸』というドラマの出演が同時に入ってね、片や時代劇で片や現代劇、それに加えて週十何本という他の番組のレギュラーをこなさなきゃならないというのは、やっぱりしんどかった。
ドラマは収録に遅れたら撮影が出来ないし、他の出演者が待っているから謝らなきゃいかんでしょう。役者さんは『ドラマ出演だけを仕事にしている』という人がほとんどですから、僕が撮影に遅れたり撮り終わったらすぐに次の現場へ向かったりして、他の役者さんが落ち着いてやれないという状況で、彼らに気遣いしながら出るというのはしんどかったな。でもそういう事ばかり神経質に考えていると毎日が消化できひんから、ちょっと気持ちをごまかしてやってましたね。
−それだけ忙しくても、舞台だけは抜かせない(欠演出来ない)。それは当時の重役が、『舞台は吉本芸人の根幹を成す部分だから』と考えていたからだったそうですが。
仁:そうです。時間割いて、お金持って、わざわざ来てくれるお客さん、これが一番大事なものである、と。今もそう思ってますけど、今より何倍もそう思ってた時分ですから、僕は舞台を休むという事はほとんどなかったと思います。
東京に行かないと駄目な場合は、公演のトップに出て…当時は昼興行4時間、夜興行4時間くらいありましたからね。で、トップに出て、新幹線で東京に行って仕事して、また新幹線で帰ってきて夜の部に出るという事もやりました。『抜いてくれたら、楽やのに』とは思うけど、そういうわけにいかんわけ。そういう事をやって来たから、今の吉本があるわけです(笑)。吉本ちゅうのはキレイ事というのは受け付けないところで、「お客さんのためにどうするか」という事だけを考えてやってきた。だから、それでいいんです。
−「笑うシニア」のページを読んでいただいているのは、師匠に葉書を読んでもらった人達とか、あるいは、またそれを聴いていた世代の人たちで、その人たちがインターネットを利用してお笑いの動画を視聴していたりします。また、「笑うシニア」の動画がきっかけとなって、「面白そうだから実際に演芸場に行ってみようか」、という人もいると思うんです。そういう人達に対して、演芸場の良さなど、メッセージを送っていただいても宜しいでしょうか?
仁:まぁ、漫才と落語と、音楽ショウ、芝居、それぞれ魅力が違うから、ひとまとめに言うという事も難しいですけれども。50歳〜60歳の人は戦後教育で「合理的」に暮らすというのが正しい事であると教わって来ているんですよね。ところが、人間は生き物だから、人生において合理的でない場面も出てくる訳です。それを無理に「合理的だ」と自分に言い聞かせて生きてしまうと、もう生きるのが苦しいわけですな。
演芸場に来て、その不合理を笑い飛ばしてホッとしてくれたらいいんじゃないでしょうか。
−どうもありがとうございました。